志度寺縁起図
「病院を訪問する方が増えており、案内の時、壁画の由来を聞かれることが多いと思いますので、判っている事を簡単に記し参考に供します。
志度寺縁起図は、横1.5米、縦3米の大きな絹布に絵具を用いて書かれており、全部で七幅あったものが一幅は失われ現在六幅が志度寺と東京国立博物館に分けて保管されております。明治三十四年に重要文化財に指定されております。
これらの七幅の縁起図は、志度寺の本尊、創立の由来、修復の由来などをそれぞれ書いてあり、本院の壁画に用いさせていただいた阿一蘇生図は修復の由来を描いたもので、七番目のものです。
これ等は説話画といわれるもので、説話すなわち説明文が別に付いております。絵の内容となっている説話は、時間と場所を変えて次つぎと起こってゆく物語で、これを一幅の絵に描いているため同一人物が違った姿で何回も出て参ります。本院の壁画でも阿一は二回出ております。
このような説話画は全国に相当数存在しますが、志度寺縁起はその中でも、古いこと、絵が優れていることなどで非常に優れた代表作といわれて、よく研究の対象となり、展示され、書物に掲載されております。
絵の内容は、三木町井戸の住人阿一が五十八才の時に重病になり意識を失い、夢の中で志度寺に参り志度寺修復のために勧進することを老僧に誓い、意識が回復した。その後も一度阿一は重病にかかり、今度は閻魔大王に会って、更に同様の誓いをするのですが、この後段の部分は本院の壁画からは省略しました。この縁起絵がかかれた頃には志度寺のあるところは島のようになっていたことがこの絵でも描かれています。原画には海岸に塩田があり働いている人も見えるのですが、あまり複雑になるのでこれも省略しましたが、人物、寺塔、門前町の街並みなど時代を現わすものはできるだけ原画を忠実に模写しました。製作年代は絵についている金具や縁起文の奥書きなどにより、一三一七年及びそれ以前とされています。
本院の壁画は変色、汚染などを心配して陶板で作りましたので、半永久的に変化致しません。
新しい建物には、玄関に何か壁画とか彫刻とかがあります。新設国立医大病院でも、それぞれ苦心の作の壁画が飾られております。本院が志度寺縁起図を選んだ理由は、その内容がこの周辺で起こった事柄で、重病人が蘇るという、病院にふさわしいものであり、この地方の誇るべき文化遺産であるからで、地域医療を通じて医学の研究、教育を行う本院の姿勢を現すのに適していると考えたからです。」
(文・故 恩地 裕 病院長 昭和63年)