新しい文明を見据えた精神看護学の探求

精神看護のあり方は時代とともに変化しており、現代的ニーズに即したケア方法の開発が求められます。現代は過去の時間の上に蓄積され、未来を規定していくため、さらなる精神看護学の発展に向けて歴史的業績に学ぶことが大切です。

目覚ましい科学の進歩により、これまで人類が抱いてきた様々な夢が実現しました。現代では世界中が瞬時につながり、宇宙までもが近い存在です。今世紀はじめに誕生した小惑星探査機「はやぶさ」が、多くの人に感動とロマンを与えたことも、記憶に新しいでしょう。はやぶさが、その使命を終えて宇宙の塵と消え逝く時、科学者たちの“はやぶさに、もう一度地球を見せてあげたい”との切なる祈りに応え、満身創痍の機体で撮ったラストショットがあります。この地球の画像を見ると、まるで、はやぶさに心があり、プロジェクトメンバーたちの心と交流していたようにも感じられないでしょうか。無機質な物質科学文明の中で、これからのあるべき機械と人間の関係のあり方を教えるものとして、はやぶさプロジェクトは、いつまでも人々の心に残り続けるのです。

この悠久の宇宙に私たちの心があるということを、美しく表現し、言葉や沈黙のもつ深い意味を伝える詩があります。日本の言葉は太古からの神秘の歴史を抱え、言霊として連綿と受け継がれてきました。それらの価値を生かすことも、精神看護と無関係ではありません。「息するものらは、心をもち、生きるものは、死ぬことを知った。一滴の涙から、ことばが育った。」というように、有限の生命が、悲哀の中で支えあって生きている事象を深く知ることは、ケアリングを支える大切な教養となるのではないでしょうか。

このような心をもった人間は、時に生きる意味を見失い、絶望の中でスピリチュアルペインといわれる魂の痛みを感じます。無限に変転する魂の存在は科学的に測量できず、現在のところ、精神看護学での学術的位置づけも明確ではありません。しかし、哲学的には古来より営々と存在していることから、その存在は自明であり、これを置き去りにした看護では、どこか限界があるのです。

看護は生活を支える営みですが、ケアを受ける人との相互作用を基盤とすることから、他者の心に働きかける自己の心のありようが大切となります。肉体は魂の乗り物であるといわれるように、人間の本体が魂ならば、自身の魂との対話は欠かせません。E・ブロッホは、まだ意識されないものを、どのくらい意識することができるかが人間の希望にとって最も重要で、そのためには潜在意識の奥深くにある「原故郷」を訪ねなければならないと述べています。新しい文明を見据え、原故郷を訪ねながら、時代に即した精神看護学を探求していきたいと思います。

画像:イメージ
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©JAXA

2003年(平成15年)5月9日に打ち上げられたJAXAの小惑星探査機「はやぶさ」は、目標の小惑星「ITOKAWA」に到着し、2010年6月13日に世界で初めて月以外から物質サンプルを持ち帰る”サンプル・リターン”に成功し、地球にへ帰還しました。

はじめに…

星があった。光があった。
空があり、深い闇があった。

終わりなきものがあった。
水、そして、岩があり、
見えないもの、大気があった。
雲の下に、緑の木があった。
樹の下に、息するものらがいた。
息するものらは、心をもち、
生きるものは、死ぬことを知った。
一滴の涙から、ことばがそだった。
こうして、われわれの物語がそだった。
土とともに。微生物とともに。
人間とは何だろうかという問いとともに。
沈黙があった。
宇宙のすみっこに。

長田弘 詩集「黙されたことば」より

精神看護学Bibliophilia

人間性豊かな看護師を目指して…

看護師の豊かな人間性は、どうすれば育めるでしょうか。人は様々な経験をすることで成長していきますが、一人の人生で経験できることは限られます。自分の乏しい経験からの対象理解では自ずと限界があり、豊富な人生経験のある患者さんの心に寄り添う看護は、個人の経験だけで作られた看護観ではいつか壁に突き当たるでしょう。自己の軸を持って人間性を磨き、人生観を養うことで、ケアの対象となる人への柔軟で尊厳ある看護を実践できる看護師として限りなく成長していきたいものです。

自己の軸や豊かな人間性は、人類が遺してきた「文学」を土台にして発展していきます。古今東西の名著には偉大なる人の人生が凝縮して描かれており、喜びや楽しみ、苦しみ、悲しみ、辛さといった、多種多様な心に触れることができるのです。読む人によって、その心を理解できることもあれば、理解できないこともありますが、読書を通じて自分と向き合うことで、見える世界がどんどん広がります。心に響く言葉や登場人物との真の出会いが財産となって、皆さんを人間性豊かな看護師として成長させてくれるでしょう。数多くの本のうち、どの1冊があなたの世界を変えてくれるかは分かりません。だからこそ、多くの本を手に取って頂きたいと思います。精神看護学は、人間の心という奥深い世界に触れる、答えのない領域です。難しいからこそ面白く、実践する看護者自身の生き方や人間的魅力が、ケアに反映されていくのです。皆さんに、学生の間に是非、手に取ってみて頂きたい教室員お勧めの書籍を紹介していきたいと思います。

「甘え」の構造

土井健郎 / 弘文堂 / 1971年初版・2007年増補普及版

甘えること・甘えられること、二者の関係性のあり方とは

人に甘えたいという気持ちは自然なものだと思います。甘えたり、甘えられたり、人との関係性の中で、意識的に、または無意識的に行っている方も多いでしょう。誰でも知っているこの「甘え」という言葉を、精神医学の観点から学術的に、その構造を明らかにしているのが本書です。甘えの表現やサインは人によって異なるため、甘えに関係する心理を表現する言葉として「気がね」「ひねくれる」「すねる」「ひがむ」など多数の言葉が挙げられています。素直な表現だけではないところに人間関係の難しさと面白さが伺えます。

臨床においても「甘え」を感じられる場面には時々遭遇します。病状や状態からしても自分で自分の周りのことができるはずなのに看護師に頼んでこられる方、反対に、看護師を呼んでくださいねとお伝えしていても申し訳ないからと自分で頑張ってしまう方、いろんな方がおられました。臨床で勤務していた時にはその日その日の業務で精いっぱいでそこまで考えることができませんでしたが、今振り返ってみると患者さんは十人十色の甘えの表現をされていたと思います。

甘えて、その気持ちが満たされることで、次のステップに進むことができるのだと思います。子どもの「安全基地」ではありませんが、そういった存在があることの安心感は世代に関わらず必要なものでしょう。反対に、甘えられることで自分の役割や存在意義を認識し、より自分の能力を発揮できることも考えられます。甘える・甘えられる、どちらも人間としての成長には必要なことだと言えるでしょう。しかし、増補普及版で追加された「甘え今昔」では、一方的な「甘やかし」とひとりよがりの「甘ったれ」が増えていると述べられています。何が甘えで、何が甘ったれ・甘やかしなのか、はっきりとした線引きはありませんが、「そこに自己があるか否か」によるのではないかと考えています。

対象との関係性は精神看護を考える際の永遠のテーマと言っても過言ではありません。特に、現代は科学技術の発展に伴い、SNSなど本書が出版された当時にはなかったツールでの関係も形成されるようになり、関係構築のあり方も変わってきています。“「甘え」は本来特別に親しい二者関係を前提とする”もので、相手との関係性が構築されていなければ成り立ちません。ですが、人間関係の希薄化が指摘される現代では、そもそも親しい二者関係を築き、維持すること自体が課題になっているのかもしれません。対人関係障害を持つ方と関わる専門職として、その方々の安全基地としての役割を果たせるように確立した自己を持つことが、精神看護にも求められるのではないでしょうか。

蔵本

生きるとは、自分の物語をつくること

小川洋子・河合隼雄 / 新潮文庫 / 2011年

人生の物語に寄り添うケアとは

目指す看護師像を尋ねられて、患者さんに寄り添うことのできる看護師をあげる学生は多い。人それぞれの寄り添い方があるだろうが、寄り添うということは、自己存在のあり方が丸ごと問われることでもある。生きづらさを抱える他者に対して、どのように自己存在を差し出せば良いのか、女性作家と心理療法家の対談を集録した本書は、このような問いを持つ者に優しく語りかけてくれる。

小説家 小川洋子氏の経験から発せられる疑問と、臨床心理学の巨匠 河合隼雄先生の飾らない発言が再現された貴重な記録は、学術書が苦手な学生にとっても親近感を持って読み進められる生きた教科書となる。例えば、ある人への関わりの例を取り上げてみたい。不登校の子が、次は学校に行くと言い、それは嬉しい、よかったというやりとりが何度もあった後、やっぱり行けないということがあったら、どう対応するかと言った対話がなされる。そのような時、自分が子ども側だったら、どう寄り添ってもらいたいだろうか。

“もし、「でも行けるよ」っていうたら、行けなかった悲しみを僕は受けとめてないことになる”、“望みを失わずにピッタリ傍におれたら、もう完璧なんです。だけど、それがどんなに難しいか”

このような語りに触れた読者は、大ベテランの心理療法家の謙虚さに感服しつつ、「傍にいること」、「寄り添うこと」の奥深さを垣間見る思いがするのではないだろうか。私たちの日常においても、友人に悩みを打ち明けられ、何とか役立ちたいと心を傾けて関わり、今度こそは、という変化への期待を持つことがある。それに反した現実を知ると、悲しみや虚しさ、無力感などが湧き起こったり、ある時は、もどかしさや苛立ちを通り越して、怒りや腹立ちなどの感情が生じるかもしれない。これらの感情は、相手に寄り添うこととは異なるが、それでも懸命に真剣に関わったからこその反応でもある。どうすれば、悲しみを受けとめる包容力や、失望しないで伴走する根気強さを養えるのだろうか。「物語」をめぐる二人の対話も見逃せない。

河合氏は心理療法においては、“人が自分の物語を発見し、自分の物語を生きていけるような「場」を提供”しており、小川氏は“小説を書いている時は、どこか見えない暗い世界にずうっと降りて行くと言う感覚がある”という。そして、この小説家の降りて行く体験は、患者の悩みに付き添ってどこまでも下へ降りて行くことと“ほとんど一緒ではないか”と河合氏もまた同意する。しかし、この「物語」という共通項において、二人には決定的な相違点があった。それは、主人公を通して創造していく営みが小説であるのに対して、心理療法では、対象となる目の前の人の話を聴いて、“その人自身が何かを作るのを待っている”のであり、“自分では何も作らない”という点である。生身の相手を前にする私たちは、対象を信じること、対象のペースに合わせること、そして、決して援助者側のペースや目的に強引に引き寄せようとせず、援助者が上に立つようなことがあってはならないことを教えられる。

小川氏は、人間は物語を持つことによって初めて、身体と精神、外界と内界、意識と無意識を結びつけ、自分を一つに統合できると述べる。生活史に関心を寄せながら想像力を働かせて耳を傾け、感情移入することを恐れずに、自分に寄り添おうとしてくれる他者を得た時、人は自分の物語を生きる力を取り戻せるのではないだろうか。看護者が心病む人の傍にいることの意味を見つめていきたい。

渡邉

夏日烈烈―二つの魂の語らい―

執行草舟・佐堀暢也 / 講談社エディトリアル / 2018年

精神医学に関心を寄せる医学生と思索家との縦横無尽な対談本

現役医学生と思索家が本音でぶつかり、歯に衣着せない物言いが、そのまま惜しげもなく活字にされている。内容について現代科学の観点からは、賛否両論あるだろうが、そこが本書の最大の魅力であり、医療に携わる者にとっても、様々な意味で刺激的な一冊と言えるだろう。

例えば、昨今の医療現場で遭遇する、“死にたくない人が増え、死ぬと遺族が怒り、医者に責任を問う”といった問題は、なかなか表だった議論にしづらい。そのような中で、ひと昔前は医師が臨終間際に引導を渡す役割を果たしていたという事実を、これからの医療を担う学生たちが知ることは、人間の尊厳を考えていく上で重要なことだと思う。いかなる死を迎えるかという人間にとっての永遠のテーマは、安楽死問題をはじめとして、避けて通れない現代的課題でもある。ひと昔前と言っても隔世の感があるが、まずは自分や家族から、最後のあり方を考える契機としていきたいところだ。昔の話として、もう一つ、昔は親がいくら看病しても子供から病気をもらうということはなく、本来、子供と大人は体質が違っていたという指摘も新鮮に感じられる。子どもの風邪を親がもらうことは現在では普通であり、周囲に溢れているからだ。

少し時代を遡り、世界に目を向けると、中世におけるペストはキリスト教圏で都市が滅びるほど壊滅的に流行し、仏教圏では個人単位の疾病であったという。この史実をどう見るだろうか。人間の精神がどれほどに時代や文化の影響に深く支配されているのかを考えさせられ、興味は尽きない。次々に展開される生命、人生、文明といった壮大なテーマに魅了され、味わい尽くそうとすれば、時代を覆う迷妄が打破されていくに違いない。文豪三島由紀夫と若かりし日に文学論を語らいあった執行氏が、三島と散らした火花を現代へ転生させた『夏日烈烈』の3日間を感じ取りたい。

渡邉

記憶のつくりかた

長田 弘 / 晶文社 / 1998年

自分を形作るのは、自分の中に積み重なった数多の記憶である

例えていうなら、お洒落な喫茶店で友人と待ち合わせしている間にも読むことができる、また、そうしてみたい気分にさせてくれる素敵な短編エッセイがぎっしり詰まっている。読後のさわやかな余韻の中で、自分の人生の一つ一つの出来事を、本当に大切にするとはどういうことかを考えさせられ、その後の友人との会話も、何かしら、いつもと違った形で記憶に残りそうだ。

繊細な感受性で、幼少期の頃からの思い出を綴っているのだが、読みすすめる毎に、日本の古き良き町にあった美しい情景が、目の前に繰り広げられ、不思議と今を生きていることへの瑞々しい喜びが湧き上がってくる。詩人とは異なる幼少期をすごしてきたのに、一緒にタイムスリップをして、楽しかった日々の輝きが蘇る。しかし、決して楽しい出来事ばかりが綴られているのではない。風邪をひいて寝込んだ時のこと、死者を弔った時のこと、ジャングルジムから落ちた怪我の体験など、子どもが大人になるまでの間に通過儀礼のように体験していく、辛く悲しい出来事が多く綴られる。悲哀から逃れられない私たちの生命が、詩人の手にかかって宝石のような輝きに変わっていくのだ。人生を豊かにする記憶のつくり方をすることが、豊かな人間性に繋がっていくことを、以下の筆者の詩的なあとがきが美しく物語る。

“記憶は、過去のものでない。それは、すでに過ぎ去ったもののことでなく、むしろ過ぎ去らなかったもののことだ。とどまるのが記憶であり、じぶんのうちに確かにとどまって、自分の現在の土壌となってきたものは、記憶だ。

記憶という土の中に種子を播いて、季節のなかで手をかけてそだてることができなければ、言葉はなかなか実らない。自分の記憶をよく耕すこと。その記憶の庭にそだってゆくものが、人生と呼ばれるものなのだと思う。“

渡邉

孤高のリアリズム—戸嶋靖昌の芸術—

執行草舟 / 講談社エディトリアル / 2016年

自らの志に生き切った芸術家の、魂とその愛を垣間見る

人生に於いて自らの生き方を貫くことは容易ではないが、自らの魂を直に生き切った芸術家-戸嶋靖昌の生は、我々に静かなる感化を与える。戸嶋芸術の哲学には、人間の持つ自然治癒力への信頼と、魂の響きを感じ取る鋭い直感力が感じられる。戸嶋の観察眼、本質に迫る力、対象に向けられる眼差しなど、生命に対峙する姿勢にはひれ伏すのみだ。戸嶋が肖像画を描く時、腐敗していく人の魂の再生を祈り、その人物に新たな息吹を与えるのだ。その戸嶋へのオマージュとして本書を世に送り出した著者、執行草舟の解説によれば、「戸嶋は、見捨てられた人々を多く描いた。しかし、それは同情からではないのだ。芸術的な愛によってである。つまり、その人々の中で、「思考の腐蝕」が起こっていることを正確に見抜いていた。戸嶋は、その腐蝕が起こった、その人生を抱き締めていたのだ。そして描くことによって、生きる力を与えようとしていた。」という。また、戸嶋は、思考の腐蝕を描き過ぎた時、キャンパスに向かい「抉りすぎた、申し訳ないことをしてしまった」と謝ったという。「愛がなければ、絵を描くことは出来ない。しかし、その愛を捨てなければキャンパスの上では形にならない」という戸嶋の言葉にも心を打たれる。

戸嶋芸術の「腐蝕」は、真の希望による生命の再生であり、愛によって神の霊魂がその生命に貫通するという生命の真の「復活」であるという。凡人にはおよそ為しえないが、残された芸術作品が放つ目に見えない偉大な力は、魂を求める者の心を鎮め、復活へと導く。他ならぬ戸嶋自身が、何もかも捨て去り、激しい葛藤の末に自らの魂を甦らせ、自らの内なる声に従って生き抜いたからに他ならない。荘厳で重厚な作品は、得られたはずの現世的成功を削ぎ落とす中で生み出され、絶筆となった作品は新たな旅立ちとなった。肉体が朽ち果てても、なお、死の瞬間まで成長した画家の生涯を知るにつけ、「現世は、ついに戸嶋を破壊できなかった」奇跡が光を放つのだ。戸嶋の芸術作品を引き立てる執行草舟の屹立した詩歌もまた、永遠に繋がる精神を導く。日常の喧騒に押し潰されることなく、静寂の中で魂の淵源を感じることのできる名著である。

渡邉

映画:ショーシャンクの空に

監督・脚本:フランク・ダラボン、出演者:ティム・ロビンス、モーガン・フリーマンなど / 1994年

長期の管理された生活から起こる問題と希望を持ち続けることで得られるもの

※以下、映画のあらすじに触れているため、先に視聴されることをお勧めする。

本作は、刑務所内の人間関係を通して、冤罪によって投獄された有能な銀行員(アンディ)が、腐敗した刑務所の中でも希望を捨てず生き抜いていくヒューマン・ドラマである。冤罪でショーシャンク刑務所に投獄されたアンディは、囚人同士や刑務官とのトラブルに巻き込まれながらも、次第に友人と言える存在もでき、出会いと別れを繰り返しながら刑務所内で過ごす。投獄後約20年後の嵐の夜にこれまでに掘り進めていた抜け穴から脱獄し、囚人生活に別れを告げたのであった(Wikipediaより一部改変)。

印象的な登場人物が多いが、その中で、ブルックスとアンディの二人を取り上げたいと思う。まず、ブルックスについてである。ブルックスは50年に渡って服役を続けており、刑務所内で図書係の役割を担っていた。仮釈放の許可が出て、外での生活を始めるが、結局、外の生活に馴染むことが出来ず、最期は首を吊って死んでしまう。塀の中の「囚人」として50年暮らし、外での住居も仕事も用意されていたが、外の生活に馴染むことができなかったブルックスが弱い人物であり、ブルックスだけに問題があったのだろうか。このブルックスの状態は、精神科領域でいうところの「施設病(医療施設での長期にわたる集団的収容生活により生じる心身の障害のこと)」の状態といえる。ブルックスには、「囚人」という役割を離れて、一人の「人」として生きていくための支援が必要であった。最後に「ブルックスここにありき(BROOKS WAS HERE)」の言葉を残した意味を考えると、世界からは消えるが、自分が存在していたことは忘れないでほしいという切実な気持ちが伝わってくるようである。

アンディは、小さなハンマーで壁を掘り進めて最終的に脱獄するのだが、それまでには長い時間が経過し、数々の耐え難い事態にも直面していた。なぜ気持ちを保ち続けられたのかというと、偏に「希望を持ち続けていたから」であろう。「希望を持ち続ける」「諦めない」とは、私も日常生活の中でよく用いる言葉であるが、言うは易く行うは難し、結果が得にくいものに希望を持ち続けることは難しい。アンディの場合は、少しずつではあるが、壁を掘り進んでいるという事実が支えていたのではないだろうか。我々の生活においても、希望を持ち続けるためには、少しずつでも取り組み続けることが必要なのだと考える。まさに「一念岩をも通す」である。

「希望を持ち苦境に耐える」という点では、V・E・フランクル著「夜と霧」に共通する。この強制収容所を経験したユダヤ人女性への研究からA・アントノフスキーの健康生成論へとつながっており、「なぜ健康でいられるのか」というのは人類に共通する問いなのかもしれない。希望を持ち、信じ続けること、その精神のあり方を描いた名作である。

蔵本

ストレス対処力SOC

山崎喜比古・戸ヶ里泰典・坂野純子 編 / 有信堂高文社 / 2019年

「わかる」「できる」「意味がある」でストレスフルな社会を健康に生きる

「メンタルヘルス」という言葉を聞いたことがない人はいない、というくらい、精神の健康に関する問題は身近な問題となりました。ストレスフルなこの社会の中では、「ストレスにどう対処するか」つまり、ストレス対処力SOC(Sense of Coherence:首尾一貫感覚)がメンタルヘルスを左右する鍵と言えます。

健康社会学者のAntonovskyは、イスラエルの更年期女性を対象とした心身の健康状況に関する調査において、強制収容所経験のある対象者のうち3割が心身の健康を保っていた、という結果に着目し、ストレス対処力SOCにたどり着きました。このSOCは、ごく簡単に言うと、「わかる」「できる」「意味がある」という3つの感覚から成り立っています。少し詳しく説明すると、自分の置かれている状況が理解できるという「把握可能感」、何とかなる・何とかやっていけるという「処理可能感」、日々の営みにやりがいや生きる意味を感じられるという「有意味感」の3つの感覚です。この3つの感覚の中で、有意味感が最も重要とされています。直面している物事に意味がある・やりがいがあると感じられれば、その対処も苦ではないという感覚は、誰もが一度は経験したことがあるのではないでしょうか。

ストレスが多すぎる状況が問題となることは言うまでもありませんが、ストレスが全くない状況では成長につながる機会を得ることができません。ストレスへの対処を負担とするか成長のきっかけとするかは自分次第です。交代制勤務や超過勤務など、とかく心身の負担の多い看護職だからこそ、ストレスフルな社会をSOCで健康にたくましく生きていって頂きたいと思います。

蔵本

精神科ナースになったわけ

水谷 緑 / イースト・プレス / 2017年

患者の行動には意味がある。それに気づくと精神看護は面白い!

私が最初に精神疾患を持つ方と関わったのは、看護学生の時です。実習で、同級生と二人で保護室入室中の統合失調症の女性Aさんを受け持ちましたが、Aさんは柵の向こうでひたすらでんぐり返しをされていました。何かしないと!と二人で声をかけ続けていると「うざったいのよ、あんた達!!」と言われてしまい、途方に暮れているうちに2週間の実習は終わりました。何が何だかよく分からなかった、というのが当時の正直な感想です。

本書のエピソードの一つに、「取れない帽子」というものがあります。常に毛糸の帽子をかぶっている患者に対して、看護師がその理由を尋ねると「脳みそが出て来るから」と患者が答えます。その後、患者は少しずつケアを受け入れてくれるようになるのですが、その背景には、「おかしな行動に見えても何か理由がある」「上辺だけ見ないようにその人その人の理由を探そう」という患者に対する看護師の姿勢が影響していたのだと思います。

実習時の、でんぐり返しを続けていたAさんにも、Aさんにとっての何か重要な意味があったのかもしれません。今となってはAさんのその後について知る機会もないのですが、なぜでんぐり返しをされていたのか、教えてもらいたいような気もします。

蔵本

精神科ナースのアセスメント&プランニングbooks 精神科身体ケア

一般社団法人日本精神科看護協会 監修 / 中央法規 / 2017年

精神科は精神のことだけみればいい?

2015年の日本精神科看護協会の調査では、治療・看護を要する身体合併症を有する患者の割合は31.5%とされています。今後高齢化の進展に伴い、さらにその割合は増加することが予測されます。精神科だから精神疾患だけをみればいいのではなく、身体合併症に関する知識も不可欠なのです。

40歳代、統合失調症の女性患者のBさんは「お腹のなかにお魚がいる」という訴えで、身体の不調を訴えていました。看護師も最初は理解できず様子を見ていましたが、訴えが続き、身体症状として表れ始めたため精査したところ、多発性子宮筋腫があることが明らかとなりました。手術後には、Bさんからの「お腹の中のお魚」の訴えは全く聞かれなくなりました。

精神疾患患者は身体症状があっても自分で適切に表現することができない場合があります。患者が何を感じ、何を表現しようとしているのかを様々な視点からアプローチすることが必要です。同じ精神疾患であっても、発症の経過や回復過程、家族背景など、患者を取り巻く環境が一人ひとり異なり、個別性が高いため、直接のヒントにはならないかもしれませんが、考えるヒントを得ることができる1冊です。

蔵本

まんが やってみたくなるオープンダイアローグ

齋藤環・水谷縁 / 医学書院 / 2021年

対話を継続するために対話を行うことで、自分のことも見えてくる

精神科領域で近年注目されている治療法の一つに「オープンダイアローグopen dialogue」がある。直訳すると「開かれた対話」であり、フィンランド発祥の治療法である。最初に当事者が自分の話をし、一段落したところで治療者同士が当事者の前で、自分はどう感じたかを話し合う(リフレクティング)を繰り返していく。患者のいないところで患者の話をしてはいけないというルールに基づいて進められる。詳細についてはオープンダイアローグに関する書籍も複数出版されているので、そちらを参考にしていただきたい。

本書では、実際の事例に基づき、漫画で状況が説明されている。計6編の漫画が掲載されているが、その中で特に印象的な事例を紹介したい。「夫の浮気を疑い、精神的に不安定になり暴力的な言動も見られるナミさん」をメインに、ナミさんの夫、ナミさんの姉が登場するが、3者の関係性は強い緊張感の漂うものである。3者と医療職者で対話を行うとその時には少し和らぐが、次回の受診の際にはまた前回と同様の状況になっている。医療職者にこのままで大丈夫かとの不安はありながらも対話を繰り返していくと、8回目にはなぜかナミさんからの困りごとの訴えが消え、全10回の対話を終える時には状況が治まった、というものである。

実際に、ナミさんのような人が精神科病院を受診した場合、自傷他害の恐れがあるとして入院になる可能性が高いことが予測される。斎藤氏はこのケースに関して、「結果的に私たちがしてきたことは、『そんなことあるわけがない』と反論するわけでもなく、『そうですよねぇ』と同調するわけでもなく、ただ、『私はそういう経験をしたことないからよくわかりません』という基本姿勢で、『どういう経験か知りたいので、もっと教えてくれませんか』と尋ね続けたことだと思います」と述べている。言葉にすると簡単に見えるが、つい訂正したくなったり、アドバイスしたくなったりするのを抑えるのは非常に難しいものである。私は読みながら、私だったら「前回も言われていましたが~」「前回とは話す内容が違っていますが」と指摘してしまっているな…と感じていた。ナミさんは最後の対話の中で、落ち着かなかった時の自分のことを尋ねられて、「別人じゃないです。あのときはあのときで自然な考えでした」と答えている。自分でもどうしようもないのは分かっているが、身動きが取れなくなることは誰にでも起こる。「私はこう思った」「私ならこうする」といろんな意見があることを提示されることで、「こうしなければならない」という考えを変えるきっかけとなるのかもしれない。

「相手の話を聴く」ことは意識しないとできないことである。相手の話を聴き、自分がどう感じたかを伝えることは、自分とはどういう人かを確認していく作業ともいえる。相手との対話を通じて、行っているのは自分との対話である。相手のことを知りたい、自分のことを知りたいという気持ちを持つことが、精神看護において最も重要な姿勢なのではないかと思う。

蔵本

夜しか開かない精神科診療所

片上徹也 / 河出書房新書 / 2019年

「夜しか開かない=夜に開いている」 必要な人に届く精神科医療

日中は勤務医として精神科病院で働き、夜はクリニックで働く。ハードな生活であることは間違いないが、本の中からは楽しそうな雰囲気が伝わってきた。「働いている人は診察を受けられないし、精神科にかかっていることを他人に知られたくない場合も多い。だから、仕事終わりの時間に寄れて、人目につきにくい隠れ家みたいな病院があれば、救われる人はきっと多いはず」との思いから、大阪ミナミのアメリカ村で夜19時から23時までの精神科診療所「アウルクリニック」を開院した。様々な背景を持つ患者が、それぞれの事情を抱えて来院している。

片上氏は初診で1時間、再診でも30分は時間をかけて診察しているとのこと。この本を読みながら、自分が心療内科を受診した時のことを思い出した。もう10年以上前の話だが、仕事に関連した内容で受診したが、待合室の混雑具合に驚いたことを覚えている。これだと診察は短時間で終わるなと思いながら診察室に入り、話し始めたところ涙が止まらなくなり、結局1時間近く泣いてしまった。その間に必要以上の声はかけられず、せかされることもなかったので、泣きたい分だけ泣けたのかもしれない。初対面で丁寧に話を聞いてくれる存在の有難さを感じたものである。心療内科もだが、精神科を受診する方にはそれぞれの事情があり、すぐに話ができない場合も少なくないし、話しているうちに整理されてくることもある。そこを丁寧に紐解かないことには、本当の解決には繋がらない。相手のことを知ろうとする姿勢や態度、雰囲気が大切なのだと感じている。余談だが、1時間泣いて診察室を出て、待合室の混雑ぶりを見て非常に申し訳ない気持ちになったこともセットで覚えている。難しいとは思うが、患者の動線は一方通行にしてもらえるとありがたいと思う。

また、片上氏は「精神科受診のハードル」についても何度も述べている。日中は仕事があるので受診できない、自分が精神疾患だと認めたくない、そもそも精神科に受診していることを知られたくない、など様々な理由から、精神科受診には踏み切れない場合も多い。一昔前に比べると、精神科受診はしやすくはなっているが、やはり「風邪をひいたから内科受診」とはどこか違うと感じる。「メンタルヘルス」という言葉は誰もが聞いたことがあるように、精神の健康については社会に浸透したにもかかわらず、精神科への偏見は根強く残っている。これは今後私たちが改善していかなければならない問題である。

精神科でも早期発見・早期治療の原則は同様である。こじれきってしまう前に対応したほうが、後が楽というのは実感として感じるところであろう。本の中でいくつかの事例が紹介されていたが、転帰まで記載されていた事例は少ない。継続中、もしくは経過を追えなくなった事例が少なくないことが伺える。それだけ精神科では長期的な関わりが求められるのである。「夜しか開かない」精神科診療所は「夜に開いている」精神科診療所である。悩み、困っている人が駆け込める場所としてこんなに心強いものはない。夜に活動するフクロウ(OWL)にちなんでつけられたアウルクリニックは、働く人たちを今日も支えている。

蔵本

我と汝

マルティン・ブーバー 著・植田重雄 訳 / 岩波書店 / 1979年

患者との一期一会の出会いを通して「われ-なんじ」の関係構築を考える

世界は人間のとる態度によって「われ-それ」「われ-なんじ」の二つになるとされます。対象を「それ」として見るか、「なんじ」として出会えるかの違いは何でしょうか。本文中には、“もしわれわれが道を歩いていて、われわれの方に向かってやって来るひとに出合ったならば、われわれはただ自己の道程のことだけしか知らず、出合ったひとの道程は知り得ない。われわれはただそのひとと出合うときにのみ、はじめて彼の道程を具体的に知る”とあります。

精神看護の実践においても、最初は患者さんという大きなくくりで出会いますが、その方の名前を知り、人となりを知り、生活を知り、家族関係を知っていく、つまり、相手のことをより深く知っていくことで、相手を一人の人として捉えることが可能となります。また、その過程において相手に自分のことを知ってもらうことも重要で、一方的な関係ではなく、双方向のやりとりによって関係性は構築されていきます。

その過程にはある程度の時間を必要としますが、看護学生の場合は実習期間が定められており、「情報収集しなければ」という思考が前面に出がちです。そうなると、途端に関係性が「われ-それ」でとどまってしまうように感じます。限られた実習期間で「われ-なんじ」の関係を築くことは難しいのでしょうか。ある時、学生が患者さんの背中をさすっている場面に遭遇しました。とても自然な流れで手を伸ばしていたため、学校に戻ってから「あの関わりはとても良いと思った」と伝えると、「私、そんなことしてましたか!?」と驚いていました。意識せず、患者の気持ちを汲んで行動することは、看護学生と患者という関係を越えた、「われ-なんじ」の関係性ではないかと思います。

また、“人間は〈なんじ〉に接して〈われ〉となる。”と述べられているように、私たちは対象と接する中で、自分自身のことも知っていきます。自分は自分ひとりだけで成り立つのではなく、周囲の人やものとの関係があって成り立つのです。イギリスの詩人テニソンの残した「私は、私の出会ったものすべての一部である(I am a part of all that I have met.)」という言葉も同じものを意味しているのではないでしょうか。

実習で出会う患者との関係は一期一会です。看護展開において、周りを知り、自分を知り、「われ-なんじ」の関係性から学ぶには、患者との出会いを通してしかありません。患者との一期一会の出会いを大切にしていただければと思います。

蔵本

働く女性のメンタルヘルス支援 COCO-Lab.(ココラボ)

家事に仕事にと多重役割の生活のなかで、頑張っていても上手くいかず、生きづらさを感じる時、誰かに話を聴いてもらったり、他の人の話を聞いたりすると、再び前に進めることがあります。女性ならではの悩みもたくさんあるのではないかと考え、女性限定のこころや気持ちに関するいろいろなことや、前に向かうための方法を話し合える「こころの研究室」として、「COCO-Lab.(ココラボ)」という名前を付けました。

ココラボサロン(年に4回開催)
 働く女性だけでなく、これから働きたいと考えている方、精神科ユーザーの方、就労支援に関わる支援者、精神看護に関心のある学生など、立場を越えて学び合う場、情報共有できる場となることを目指しています。
ココラボJob Port(サロンの集まりのない月に開催)
 発達障害当事者の発案から始まった、発達障害者の生活や就労に関する様々な問題の解決にむけて、当事者・支援者が一同に会して話し合います。金銭管理や仕事の場面の対応からリラクゼーション技法まで、テーマは広く、いろいろな視点から取り扱います。
ココラボケース会(月1回程度)
 活動にご協力いただいている支援者と集まり、事例への支援について、看護、福祉などの専門職がそれぞれの視点から意見を出し合う場を設けています。ケースの状況に応じて、メール等での情報共有も図りつつ、本人の持つ強み(ストレングス)を活かした支援を考えていきます。

※2019年度より開始した取り組みのため、まだまだ発展途上ですが、今後さらに活動の場を広げていく予定です。関心のある看護学生の方、当事者の方、「お問い合わせ」ページからご連絡をお待ちしています。(担当:事務補佐 山地)

COCO-Lab.(ココラボ)