世界に誇る先端技術
漏斗胸の治療において最も重要なのは、何本のバーを使用するのか、そしてそれぞれのバーを胸郭のどの部分に留置するのか、という手術戦略にあります。手術プランニングの巧拙が、結果を左右します。香川大学形成外科においては計算力学の手法を応用した、漏斗胸の手術戦略を立てるシステムを開発しています。これは日本で最先端をゆく技術であり、日本形成外科学会より学会賞を与えられているのみならず、世界からも深い関心が寄せられています。
肋軟骨がそれほど硬くない小児や思春期の症例においては、手術設計はそれほど困難ではありません。しかし胸郭が硬化しており、単純なナス手術ではよい結果が見込めない場合には、このシステムを用いて手術戦略を決定します。
このページでは、われわれの最先端システムにつき概略を説明します。
開発の経緯
図1:同じ手術を行っても結果は異なりうる
まず、システムを開発しようと思った経緯より説明します。私たちは何百例という漏斗胸の症例を治療する中で、全く同じ手術を行っても、得られる結果が異なる場合があることに気が付きました。たとえば図1に示した2つの症例は、ともに第5肋間に矯正バーを装着しましたが、術後の結果が異なっています。
このような違いは、一人一人の患者さんの胸郭の特性の差によって生じます。同じく漏斗胸の患者さんと言っても、どこが凹んでいるのかは一人一人が異なりますし、骨や軟骨の硬さも違います。
通常のナス法をおこなってもよい結果が得られない場合には、プラスアルファの操作を行う必要があります。詳しくは別のページに書いていますが、症例によっては胸骨を分割したり、複数のバーを使用したりする工夫が必要になります(図2)。また、術後の痛みを少なくするために、肋軟骨に割入れを行わなくてはいけない場合もあります(ナス法の欠点(3.後戻り)» 【後戻りを防ぐためには】)。
図2:ナス法単独ではなく、追加の操作が必要な場合がある
このように、よい結果を出すためには、ひと工夫もふた工夫もしなくてはいけません。こうした手術の戦略を立てるためにはまず、単純にナス法を行った場合にはどうなるのかを知る必要があります。そのうえで、「単純に手術を行った場合にはこのようになるから、ここを工夫しよう」と考えて手術の戦略を立ててゆきます。
【原理】
図3:複雑な形の分割と単純化
それでは、「単純にナス法を行うとどのようになるか」はどのように予測するのでしょうか?
この予測を行うためには「有限要素法(ゆうげんようそほう)」という、力学のテクニックを使います。このテクニックの基本的な原理は、複雑な物体を分割して単純な構造(これを「要素」と言います)に置き換えた上で、おのおのの「要素」について力学的な計算を行い、その結果を集積することです。例えば図3のような建築物があった場合、それ自体はとても複雑な構造をしています。しかしそれを分割して行けば、最終的には「板」や「棒」のような単純な要素に収束します。こうした単純な要素に力を加えるとどの程度曲がるのか、どの程度のひずみが発生するのかということは、単純な力学公式を用いれば、すぐに計算して答を出すことができます。
図4:飛行機の翼に生じるひずみを評価する
そして、おのおのの要素について得られた結果を相加・集積すれば、ある力がある物体に加わった時に、その物体がどのように動くのかを予測することができます。たとえば図4は飛行機の翼に風圧が加わった際に、その翼がどの程度曲がるのかを予測する計算結果です。飛行機や自動車の設計を行うにあたっては力学的な安全性が非常に大切ですので、設計の段階において、こうした計算テクニックを用いてその安全性が十分に検証されます。
この視点から、漏斗胸の治療で問題になる胸郭について考えてみましょう。胸郭は胸骨や肋軟骨が連結して形作られています。胸骨は平たい骨であり、その周りに棒状の肋軟骨が連結しています。これを単純化して見てみると、テーブルと脚のような関係になります(図5)。ナス法の手術ではバーを装着して胸骨の形を修正します。これはちょうど、図6のようにテーブルに力を加えて形を変えるようなものです(もっとも、実際のナス法手術では、下から上に向けて力が加えられますが)。
図5:胸壁の構造を模式化する
図6:ナス法の模式化
図7:胸郭の各部分を、適切な部材を用いてモデル化する
このように簡単な構造物で胸郭をモデル化します。胸郭は肋骨や胸骨、肋間筋で構成されているので、それぞれの部分に適した素材で単純化します。たとえば骨は「棒」で、肋間筋は「ばね」でモデル化します(図7)。
図8:個々の胸郭に対応する
3次元コンピューターモデルを作成
このように胸郭の各部分をモデル化した上で、改めてモデル化した各部分を組み合わせると、胸郭の力学的な特性を忠実に反映したコンピューターモデルを作成することができます(図8)。
図9:手術を模した負荷を加える
この上で、ナス手術を模した力学負荷を3次元モデルに加えます(図9)。具体的な操作としては、計算を行う上での負荷条件をプログラムに入力する操作を行います。
図10:3次元コンピューターシミュレーションを
用いた術後の形態の予測
力学計算を行えば、ある胸郭に対してナス手術を行うとどのような形になるのかについて、おおよその予測を行うことができます(図10)。このシステムの開発に対し、平成23年度の日本形成外科学会の学会賞が贈られました。同賞は、日本における当該年度のもっともすぐれた研究1~2件に対して与えられる賞であり、平成23年度は1件のみでした。また、同システムの開発に関して科学研究費(文部科学省)を受領しています。漏斗胸の治療に関連して公的な研究補助を受けている医療施設は、本邦においては香川大学形成外科と川崎医大小児外科のみです。
最近のテクノロジー
図11:CT検査による胸郭の画像データ取得
以上、香川大学形成外科において開発している技術の原理について説明して来ました。こうした研究を私たちは過去10年にわたり行って来ましたので、現段階においてはより洗練されたものになっています。現在の段階で行っているシステムの運用について説明します。成人で、胸骨や肋軟骨が硬い症例に対して、主としてこのシステムを用います。
まずCT検査を行い、胸郭のCTデータを得ます(図11)。
図12:得られたCTデータを「硬さ」を反映する形式に変換する
得られたCTデータをさらに処理し、3次元画像として再構築します。これと同時に、胸郭を、肋骨・肋軟骨・脊椎に分割して各部分に対して適切な物性値を割り当てます。胸郭と一口で言ってもおのおのの部分に応じて密度や硬さが異なりますので、それぞれの部分の力学的な性状を正確に反映させる必要があるからです。こうした作業はCTデータをグラフィックソフトに移行した上で行われます(図12)。
図13:各部分の硬さを反映するモデルを、
さらに計算可能なモデルに変換する
部位に応じて正しい物性値を割り当てた3次元モデルを、力学計算が可能な状態にさらに変換します。力学計算が可能な状態とは、「要素」と言われる細かい構成単位に分割されている状態のことです。例えば図13の右側のモデルは、約8万の要素から構成されています。
こうして作成されるモデルはバーチャル計算の世界において、元の患者さんの胸郭と全く同じ形と硬さを持つことになります。つまりこのモデルに仮想上の負荷を与えて力学的な計算を行えば、元の胸郭に力を加えた場合に、その胸郭がどのように形を変えるのか予測ができます。
そこでナス法を行うと、この胸郭がどうなるのかを予測します。ナス法においてはバーを介して、胸骨の後面に前側に向かう力が加えられますので、この力の値を組み入れて力学計算を行います。計算を行うことで、手術に伴って胸郭の形がいかに変化するのかがわかります。予測の例を動画1に示します。
動画1:ナス手術に伴う形態変化の予測
図14:単純なナス法を行う場合の予測
静止画で見ると図14のようになります。解析を行った結果、この患者さんにおいては、単純にナス法を行った場合、胸郭の中央部が持ち上がりすぎることがわかりました。また、胸郭の中央部分にひずみが集中しています(図14下の赤い部分)。これはつまりこの部分に手術後に痛みが発生する可能性があるということです。
図15:肋軟骨に削りを入れる
こうした、形の不都合およびひずみの集中は、肋軟骨が硬化していることにその主たる原因があることは別ページ(ナス法の欠点(3.後戻り)» 【後戻りを防ぐためには】)で説明しました。また、これを解決するためのひとつの方法として、肋軟骨に割を入れて曲がりやすくする方法についてもそのページにて説明しました。そこで、肋軟骨に割を入れる操作を行うと、結果に改善が見られるか否かを検証してみることにします。図12で作られた3次元モデルの肋軟骨の部分を、3次元グラフィックソフトを使って削ります(図15)
図16:肋軟骨に削りを入れたモデルを力学モデルに変換する
削りを入れたモデルを要素に分割し、力学シミュレーションができるようにします(図16)
図17:肋軟骨に割を入れたあとに
ナス手術を行った場合
肋軟骨に割を入れたあとにナス法を行えば、どうなるのかをシミュレーションしてみます。
図17はその結果です。図14と比較したところ、なにも操作を加えないでナス手術を行うに比べて、胸郭の形が良くなることがわかりました。また、ひずみが集中する部位もなくなり、術尾の痛みが少なくなるであろうことも予測できます。